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朝っぱらから、トグサは大変機嫌が悪かった。
というより朝だから、大変機嫌が悪かった。
確信犯だと思う。あの男はいつもトグサの仕事が立てこんでいるときや緊張しているときに限って、足腰立たないほどにトグサを抱く。それに応じずにいられない自分にも腹が立ち、八つ当たりで怒りは倍増するのだった。
――くそったれ――
インターフェイスのマップを確認しているスカした横顔を眺めながら、トグサは心の中で悪態をついた。どうせ頭の中ではこっちの痴態を思い出しているくせに、表情を出さないあの義眼が心底憎たらしい。ああしてトグサを消耗させて、賭けの勝ちはもらったなどと考えているとしたら大きな間違い。
――徹夜にゃ慣れてるんだ。悪いが負けてやる気はないぜ――
ギンギンと睨んでいると、バトーはひょいと顔を上げ、呑気なそぶりで手をひらひらさせた。
「おうトグサ、俺はいつでも始めていいぞー」
今！この場で！ぶん殴りてえ！
広い講義室には窓が無く、人工の光が太陽もかくやと照らしている。スクリーンモニターで訓練エリアの確認が行われ、イシカワがくだらないことをのんびりサイトー達と話していた。バトーが訓練に入るため、全体訓練指揮と評価教官補佐をするために手を開けてくれたのだ。
そんな呑気な雰囲気を尻目に、訓練生たちは戦々恐々だった。バトーが教室を出てから、トグサによって追尾が組み立てられる。昨日と同じ班構成であるとは思っていたが、それ以外に何をやらされるのか、彼らには予測もつかなかった。
そんな彼らを見ている目がある。現役連中が新入りを選ぶ試験は常に行われているのだ。訓練生たちはそれをわかってはいない。軍上がりは軍同士、警察上がりは警察同士、それぞれに微妙な派閥とグループを形成し、ぼそぼそとしゃべる様子を抜け目なく観察されている。現役連中のくだらない会話？とんでもない。くだらない会話だからこそ、別なことにも意識を向けられるというもの。コミュニケーション能力はどうか。周囲への目の配り方はどうか。
正直、どれだけの人間を採用できるか、はなはだ心もとない状況ではあった。
トグサはというと、さっきから手元のボード相手になにやら格闘中だ。時折妙にギラつく目でバトーを睨んでいるが、そういう生意気な時は要注意。今日の訓練で、また仰天する手を打たれることは覚悟しておくべきだろう。
――昨夜はやりすぎたか？――
ま、それはそれでバトーも勝負のしがいがある。仕事の方に意識の向いた、ぬるい訓練では話にならない。
ひょこひょこトグサに寄っていこうとしたアズマを睨みながら、バトーは自分の大雑把な逃走計画を放り出した。
――出たとこ勝負でやってやる――
それこそ互いの望むもの。馴れ合いなんぞクソくらえ。食うか食われるか。研ぎ澄まされた勘と経験、そして技術をすべて駆使して追い詰め、逃げる。勝った者だけが生き残るシビアな世界。ここは９課。こここそが俺たちの生きる場所。
「始めるぞ」
イシカワの宣言を合図に、獣たちがゆらり立ち上がる。
バトーがセーフに消え、イシカワから訓練開始の合図が発せられると同時に、トグサは指示を出した。
「これより名前を呼ばれた者同士バディを組め。指示された場所へ１０分以内に移動。以後、すべての命令は移動中に行う」
トグサは容赦なく訓練生たちを組み合わせていく。
「担当エリアに到着と同時に付近のＩＲをすべて掌握しろ。コバヤシ。シバ。アルファ１を構成。Ａ５を担当。オキ、オオハシ。アルファ２。Ｂ１。」
訓練生全員にざわめきが広がる。無理もない。トグサがやろうとしていることは教科書には載っていない。生身の人間を残して義体化率の高い者同士を組み合わせ、一気にエリア外縁に散らすつもりだ。通常こんなことをすれば、義体化率の低い者同士の班が担当するエリアに大穴が開く。
いぶかしげな顔で緩慢に動く訓練生たちに、トグサはピシリと言い放った。
「聞こえなかったのか。１０分以内に全員指示された担当エリアを掌握しろ。今後同じ命令を二度は言わない」
訓練生たちはその科白に泡を食って飛び出していった。
「ボーマ、ナガヨシ、ブラボー１。Ｃ４――」
講義室からこうして全員を送り出す。義体化率が高い者でも、訓練エリアの外縁に１０分で辿りつくのは難しい。彼らは必然的に頭の中でＧＰＳを呼び出して最短経路を確保しなければならない。あげく間に合わなければ、走りながらＩＲの解析を始める必要もある。
教壇そばの机に座って賭けのオッズを確認していたイシカワは、トグサの作戦の開始を面白く思った。相変わらずはちゃめちゃだが、理屈はあっている。エリアの外縁が決まっているのなら、周囲から中心に向かって対象の行動を制御していくのも一つの手だ。実戦ではエリアが決まっていないのだから、この手が使えるかは疑問だが、特に不可能な話ではない。
――問題は、バトーの野郎が乗せられる玉かってことだぞ、トグサ――
そう。今日の訓練、おそらく駆け引きでは互角。ならば主導権を握った方が勝つ。
――がんばれよトグサ。お前が勝ってくれないと、俺は大損だぜ――
……胴元のくせして、イシカワはきっちり自分もトグサに５万、賭けていたのだった。
今回、バトーの選んだセーフは、当然トグサの時とは違う場所だ。用意された装備は同じ。だがバトーはトグサに比べると身軽だった。ショルダーバイクだの、ラペリングロープだのはいらない。銃もやはり、自分の銃以外にはセブロＭ５しか持たなかった。
トグサにしてもそうだったが、自分の銃にペイント弾を入れたくない。他にバックアップもこっそり持っているので充分だった。
――今日の訓練、昼には終わるかね――
さっき進行ファイルに、新規の案件が入ってきた。全員が他にも仕事を抱えていて、実はイシカワやボーマあたりは、訓練をしながら電脳内で仕事をしていたりする。緊急の強行などが入れば当然訓練は中止になるわけだが、久々に面白そうな訓練に水を差されるのは面倒な気分だった。少佐は今日の午後には帰ってくる。なんとか報告できそうなものを用意しておきたいが、それにしても最近の少佐のぼんやりした顔は気になった。
いつか。いつか少佐が消えるのではないか。いかなるしがらみも彼女をつなぎとめる枷にはならない。思いのままに、いずれ彼女は飛び去ってしまうのではないか。その不安がともすれば首をもたげる。
頭を振り、掠めた不安を頭の隅にもう一度追いやると、普段は持たない物を一つ手に取り、バトーはセーフを後にした。
バトーがセーフを出る頃、訓練生たちは既に息を切らしていた。生身の人間たちは、それはそれでバディを組まされ、エリアの比較的内側を担当させられている。
――さて、どこにひっかかるかだよな――
エリア掌握は穴だらけである。訓練生たちは自分の担当エリア以外のことまで考える余裕がなく、他のエリアから侵入して抜ける経路の発想がなっていない。要所要所に現役を配置したが、そもそも人数が圧倒的に不足気味だ。
――課長、最低二十人の増員は欲しいところですよ――
電脳内で展開したマップにＧＰＳを重ね、すべての訓練生の配置の流れを組みながら、トグサも９課を後にした。
バトーを追い詰める。これから３時間、トグサの頭はそのためだけに回転するのだ。
０９００時に開始宣言があってから数分は何事も無く過ぎた。
バトーがどの方向にどう動くか、トグサはおよその見当をつけてはいたが、それがきちんとはまるかどうかは蓋を開けてみないとわからない。昨夜ほとんど眠っていないから、その辺の自分の勘はかなり怪しかった。
矢継ぎ早に入ってくる電通に指示をして動かしていく。全体を俯瞰した配置に人間を動かしながら、トグサは自分の目指すエリアに入った。
おそらくバトーはこのエリアからまっすぐの商業エリアに最初に姿を現す。高い建物と低い建物が混在していて、バトーのように高低差を使った逃走を得意とするサイボーグには格好のエリアだ。そこで一般の人間の混雑具合を確認してから近接するビジネスエリアか、もしくは難民居住区の近くに移動する。トグサ自身は難民居住区やその近くの雑多なエリアを利用しなかったが、バトーは容赦なく使うだろう。あのエリアに入れば、トグサは浮くがバトーは馴染む。その違いだった。
――バカは高いところがなんとやらってね――
商業エリアの中でもまずは高いところ。俯瞰で辺りを見渡せる場所から始めるはず。
――その前に――
トグサはエリア中心に近いとあるビルの谷間で待った。セーフがたとえどこにあろうとも、バトーは必ずここの上を通る。
それは肌に馴染んだ確信とさえいえる勘だった。同じような高さのビルをマップ上でつないでいくと、外縁と中心をつなぐ一筋の線が浮かびあがる。トグサが指揮であることがわかっている以上、バトーはもたもたせずに一気に身を隠せるエリアに抜けるだろう。そしてその時、このラインを使う。使う他ないのだ。読まれる可能性が高くても、このライン以外にバトーが渡る線はない。
トグサは待った。一緒にいる訓練生が訝しげに見るのにかまわず、狙ったその一箇所を見続ける。
一瞬だった。黒い影がはるか頭上の青い空の線をす、と切るのをトグサは見た。
――旦那、悪いがこの勝負、俺の勝ちだ――
その姿の行く先を確認せぬまま、トグサはジャケットの裾をひるがえして次のエリアに向かって走り出した。
そのまま電通で全員を動かしていく。
（アルファ１、Ａ４経由でＢ３に移動。デルタ２、Ｇ４経由でＧ３に移動。チャーリー２……）
潰しがきくように配置した人間を、今度こそ追尾用の配置に置き換えながらＩＲを解析し、そうしてトグサは商業エリアに向かって走った。
バトーとしては、このラインを使いたくはなかった。だが手始めにとにかく移動しないと、トグサ相手では身動きが取れなくなる。意表をついて住宅街辺りをうろちょろしてもよかったのだが、小手先の作戦でそんなことをすれば、自分の外見ではまずいことになる。
おそらく今の動きは読まれている。ここで動いてこないのは、訓練の最初で無理をしてバトーの動きを狂わせたくないからに過ぎない。
――まずは俺が一手。バカは高いところが、とか思ってんだろ？トグサ――
商業エリアの一番高いビルの上で、バトーは周囲のＩＲを拾った。訓練生たちがちらほら見える。
――まったく――
姿を見せてどうするんだ。溜息をついたバトーはとりあえず追っ手がいないところからはじめることにした。穴だらけなのはお互い承知の上。序盤の手は、トグサがどれだけその穴を計算に入れて動けるかを探ることからだ。
ひょい、といとも無造作に３５階建てビルの屋上から一歩を踏み出したバトーは地面に降り立つと、とあるデパートの中に入っていった。
テナントの間をツカツカ歩く。いかにも軍人の休日を装い、バトーはそのまま裏手に抜けた。そっと外の様子を窺う。裏通りは戦前からの古い町並みで、ほんの少し歩けばいかがわしい歓楽街はすぐそばだ。ＩＲを検索し、思惑どおりその道にカメラが無いのを確認すると、バトーはデパートを出た。向かいの小さな古道具屋に入る。何だかわからないガラクタの山の奥で、老人が三毛猫を膝に乗せて居眠りをしていた。その主人に話しかけてトイレを借りる。と見せかけて隙を狙いさらに店の裏口から１ブロックを抜けた。
そこは歓楽街だった。けばけばしくて派手な看板は、朝の光の中ではうらぶれて見える。夜ともなれば男の袖を引く女たちや元気いっぱいに声を張り上げる男たちでにぎやかになるのだろうが、今はほとんど人がいなかった。だが所在無さげな男たちが二、三人ずつ道端にたむろっている。
バトーはそのうち、こすっからい目をした男に近づくと、人懐っこさを装って声をかけた。
「なあ、この辺で仕事探してるんだが、募集してるとこねーかな？」
男はバトーの顔をしげしげと眺めると、いや、ないな…ともそもそつぶやいた。
「俺困ってるんだよ。場合によっちゃ、なんでもやるぜ？」
バトーがへこんだ顔をすると、一緒にいた男がそういえば、と持っていた煙草を上げた。
「あっちの方で張り紙貼ってある店があったぜ」
「おう、サンキュ」
バトーはいかにも助かったという顔で手を振ると、そちらに向かって歩きだした。確かに、５軒ほど先の店に、呼び込み募集らしき古い張り紙が貼ってある。
バトーはその店の入口を押した。鍵はかかっていなかった。
店の奥から、ほどいた蝶ネクタイを首に下げた細身の男が出てくる。店長らしきその男に張り紙のことを尋ね、バトーはごくごく普通に面接を頼んだ。用心棒にでもいいと思ったのか、店長はバトーを雇うことにしたようだ。バトーがそこに就職するまで２０分。訓練開始から３０分は過ぎていたか。そこまでのんびりやってから、バトーはまたトイレを借りた。トイレの横の裏口から出る。そこはもう難民の便を図る闇市の脇だった。もちろん、カメラの数は圧倒的に不足し、生きているカメラはテントにさえぎられて通行人をきちんと把握できない。
そこまで来て初めて、バトーはふふん、と笑った。しばらくはここで時間を潰すつもりだった。
トグサは、バトーが速い動きで商業エリアから難民居住区に入りこむと予想していた。闇市に入る道には出来るだけ早く人員を配置し、待ちの態勢に入っていたのだ。
なのに、バトーは姿を現さなかった。さっきあの場所でビルからビルへと渡っていったのは間違いなくバトーだ。それは確信できる。なのに、それきり見つけられない。バトーの土地勘をもっと詰めて考えるべきだった。カメラの無いところを縫ってうまく移動されたに違いない。
――くそ、やられたか――
トグサはボーマと数人の訓練生に、建物内のカメラのデータを拾うよう指示した。
数分で、ボーマがデパートの中を歩くバトーの姿を拾ってきた
つまりバトーは建物の中を抜けて次のエリアに移動したことになる。訓練生たちを動かし、その辺りで聞き込みをさせると、やはり次々と建物内を抜けて移動したらしい。
後を追うか……。だがそれでは結局拘束に至ることはできない。あれだけのサイボーグを捕らえるとなれば、先回りして一切の抵抗の可能性を排除し、確実にやらなければ振り切られる。
さらに言えば、穴があるのは承知の上だ。ここで難民居住区や闇市に人員を入れるのは得策ではない。それよりバトーがそこを出てくるときに、その動きを把握できるようにしておくことが肝心。
次の一手をどうするか――トグサはマップを眺めながら考え込んだ。
難民居住区から出るときの穴は……今のところ二箇所。
「よし。これでいこう」
トグサは全員の配置を動かしていく。穴をそのままにしておき、その周囲に監視網を敷いていく。
（全員よく聞いてくれ。あと最高１時間、対象を発見できるまで現在の場所で待機。特に難民居住区から出てくる人間に注意しろ。対象を発見した場合はこちらに連絡。追尾はせず、どこのエリアに移動するか確認しつつＩＲデータと視覚情報をこちらに回せ。繰り返す。対象を見つけた場合は直接追尾せず、行動の方向を確認してデータを回せ）
サイトーから補足要求が出た。
（つまり、足取りだけを追って泳がせるということか？）
（そうだ。バディは常に背中合わせで視界を三六〇度確保しろ。担当エリアのカメラ解析を怠るな。現在のところ対象は捕捉できていない。見つけたらそのままやりたいようにさせろ。どうせ単純な思考回路でしか動かない）
全員が沈黙する中で、大胆にも暗号通信を入れてきたのはアズマだった。
（トグサ。夕べ、大先輩となんかあったのか？）
（……あるわけないだろ）
（そうかねぇ？カリカリしてんぜ。今夜飲みに行かね？）
（行かない）
ちぇ、という拗ねた音を残して、アズマからの電通は切れた。
あと１時間。その時間内に、バトーは必ず動く。
2
実際、バトーが動いたのはもっと早かった。正直じっと潜伏しているのは性に合わない。それに、訓練生たちを評価するならもう少し動いた方がいいという判断もあった。
難民居住区の縁をずっと回って様子を見て行くと、訓練生たちの監視には二箇所穴がある。バトーはその穴を使って出ることで、トグサの反応を見ることにした。
訓練開始から１時間１２分。ＩＲが固定されているその真下で、訓練生の死角を狙ってバトーは地面を移動した。角まで来て次の道を解析し、様子を見て道を渡る。こうしてするすると、バトーはもう一度商業エリアまで戻った。ここまで、見られていない自信がある。
昨日の訓練でトグサが使った複合ビルの中からまっすぐ屋上にあがると、バトーはそこから次の手に移ることにした。
バトーが穴からでた。それは本来まったく痕跡を残さないものだったが、穴のさらに外側に監視を置いておいたため、なんとかトグサに情報として上がってきた。訓練生を評価するには彼らを動かさなければならない。こっちが難民居住区に絶対に入らなければ、バトーは動かざるを得ないのだ。
ＩＲのデータを訓練生に解析させる。マップに重ねる作業をパズに頼む。
パズの班と落ち合い、マップをつき合わせて何枚も重ねていく。ＧＰＳ、カメラデータ、訓練生の視覚情報。道路の混雑状況。リアルタイムでそのデータを全員に流していく。それぞれが解析をしながら勉強することを要求するのだ。
パズと組んでいるソガと、トグサの連れていたキムラは、途方に暮れた顔で二人が作業しているのを見ていた。
「あの…対象をロスしたということですか？」
「ん？いや、捜索してるだけだが…」
訓練生が余計混乱した顔をしたのを見て、トグサは溜息をついた。
「ロスと捜索とは違う。完全に行方をくらまされるのがロス。今は、対象がどの辺りにいるかはわかっていて、その正確な位置を割り出す作業をしているだけだ。だから捜索」
納得いかない顔でマップを真剣に覗き、ソガはそこに隠された暗号を読みとろうと必死になっている。
――こいつ、まじめだな。教育次第で一応使えるか？――
「余事象をたどるんだ。この場合、確実にいないと言えるところを塗りつぶす。一つか二つの要素では見えてこないが、できるだけ解析を進めてどんどんつぶしていくと、いるという確率の高いところが浮き上がってくる。座学でやらなかったか？」
「…やりましたが、演習問題をやっただけで……」
「じゃあ今、やってみろ。対象の移動経路が見えてくる。対象の能力が高ければ高いほど、面白いように決まってくるぞ」
そうこうしている間に、終わらせたぞ、とパズがマップを共有ファイルに上げた。
（どんな感じだ？）
ボーマの電通に応じて、パズが説明に入った。
（商業エリアから旧市街に抜けようとしているな）
「旧市街、か…」
また厄介なところに逃げ込もうとしている。半ば廃墟と化した町並みの中に、難民、浮浪者、それを食い物にするヤクザ、犯罪者が入りこみ、魔窟ともいえる状況を作り出しているエリアに、バトーは迷いもなく入って行く。
職業柄、トグサとてそういうエリアに入ることはまれではない。とはいえバトーのようにいとも軽々と入りこみ、自在に利用して逃走しようとは思わないし、また出来ないことでもあった。
――まいったな。旧市街から出る道は？――
とにかく解析だ。
（どう思う？旧市街ってことは、終わりまでここで粘るつもりだろうか）
サイトーに聞いてみる。
（…今、１０４４時か。お前は中に人員を入れるつもりなのか？）
（どうだろう。中での対象の動きをシミュレートしきれれば、入れて追尾は可能だが、それでは拘束に至ることは難しいな…。やはり引きずりだす方向でいきたい）
ここでボーマからも電通が入った。
（旧市街内部のシミュレーションを一応してみたが、マップが不完全だな。土地勘のないものを入れるのはやはり非常に危険だ）
「圧倒的に不利だな…」
――まったく、あのでかい図体で、どうしてこんなにするする隠れられるんだ？――
トグサは今更ながら、先輩としてのバトーの力量に溜息をついた。
バトーからイシカワに暗号通信が入ったのは、トグサが旧市街の外で対応を思案している時だった。
（おい、訓練生たちはどんな感じだ？トグサの指示に対応しきれてんのか？）
イシカワはすぐにピンと来た。これは誘導尋問だ。訓練時間は残り半分を切った。このまま自分の動きをトグサに管理された状態では、最後に寄り切られるおそれがある。
ここまで、互いが互いの腹を探りあい、バトーが動けばトグサが周囲から絡める動きをし、トグサが穴を開ければバトーがそこを抜ける動きをしてきた。バトーはこの辺りで大きく相手の思惑を外して一気に主導権を取りたい構えなのだ。
そのために、トグサがどこまで訓練生たちを持ち駒として動かしきれているか、探りたい。
イシカワは当然乗らなかった。逆に聞き返してやる。
（お前の感触ではどうだ？）
（…トグサのやつ、なんとかうまく操ってるみたいだな）
一瞬の間をおいて、バトーは何事もなかったように返した。バトーとしてもイシカワが簡単に引っかかるとは思っていなかったはずである。いわゆるダメで元々というやつだ。
（まあ、統制できてもらわないと困るがな）
（昨日あれだけやった奴の指揮だ。訓練生たちもビビっておとなしく言うことをきくさ）
イシカワには負け惜しみのように聞こえる科白を吐いて、バトーの電通は切れた。
しばらく考えていたトグサは、腹を決めた。
（とりあえず、旧市街から出ることが出来る場所のすべてをチェック。関係の無い人間が引っかかってもかまわない。旧市街からでるすべてのドアにシールをかけろ。
チャーリー１、Ｃ３掌握。デルタ２、Ｃ５掌握…）
どんどん旧市街を封鎖していく。
（あの、ほんとに、シールしてしまっていいんですか？）
訓練生の質問に、トグサは答えた。
（かまわない。全部をシールし終わる前に、焦った対象が飛び出てくる）
答える間にも、全員をどんどん動かしていく。残り半分を切り、マップ上で見ると旧市街のエリアの西側がきれいにラインを描いている。バトーがこのことに気づいたなら、シールが終わる前に出ようとするはずだ。
問題はどこから出るか、だった。通常考えるなら、まだ手が回っていないところから出ようとするだろう。
バトーなら？
賭けてもいい。シールが終わったところを突破する。バトーはこう考えるだろう――トグサがこうもあからさまにシールをしているということは、シールの裏に人員を配置して罠を張っているとバトーに見せかけている。派手に行動することで目を引いているが、実際はまだ封鎖しきれていない部分に人員を配置していると。
裏の裏をかかれる可能性は常にある。だが追尾側の人数や能力を考えるとシールの裏側に実際に罠を張る余裕は無いはずだ――
だがトグサは敢えて裏の裏をかいた。訓練生たちを限界まで急かし、自分も全力で走る。
（立ち止まるな！何のために高いところに上れる義体なんだ。高いところに上ったのなら、自分がバカではないことを証明しろ。上下両方に意識を向けて探索。細い路地は必ず隙間から見下ろして観察すること。
おい！チャーリー２、遅れてるぞ！早くシールして全体を掌握しろ）
早く、早く！
トグサが焦り始めた４分後、バトーが動いた。
旧市街から国道に繋がる部分で、いとも簡単にバトーがシールを破ったのだ。
ひっかかった！
（デルタ２、アルファ２、対象の進行先に回り込んでフォローしろ！逃がすな！）
アズマの班が必死で走っていく視覚情報が共有ファイルで流れる。動かしていた甲斐あって、はさみうちの形で向こうからも訓練生たちが駆けてくる。
（拘束しろ！）
トグサが凛と命令した。
国道のガード下で、むくつけき男どもがにらみ合っていた。常にエリア同士を縦横に行き来させられていた訓練生たちは、エリアに固定されていた考えをいつの間にかなくしていて、指示通りに柔軟に動いた。サイトー、パズ、ボーマの班が対象逃亡の場合のフォローの線に素早く入り、一番近かった訓練生たちが対象の捕獲に入る。トグサは対象までの距離に応じて、各訓練生にフォローの態勢を指示した。
アズマの班ともう一つ、合計４人がバトーの拘束にかかっている。
「動くな！」
拘束して、これで終わりだ！
「両手を挙げろ！」
訓練生が銃を突きつけてバトーに命令している。バトーは緩慢な動きでポケットから手を出そうとしながら、不敵に笑った。
「これで終わりだと？」
角を回りこみ、バトーの姿をやっと捉えたトグサは、ハッとなった。
「おい、バトー何する気だ！」
バトーがポケットの中で何かを操作したそのとき、バチッ！と全員の電脳内に鋭い痛みが走った。
一瞬全員が顔をしかめてかがんだ次の瞬間、バトーは消えていた。
「あーったまにきた！旦那の野郎、たかが訓練にここまですることないだろ！しかも何っなんだよ。あの探査ウイルス、装備に入ってたか？」
怒り心頭、トグサはイシカワにねじ込んだ。
（あんな探査ウイルス、今回許容範囲かよ！）
（どれ、ファイル見てやる……おいおい、セーフの装備に携帯端末に仕込まれたウイルス、入ってるぞ。お前自分のときに見なかったのか？）
（うっそだろ。バトーのやつがこっそり持ち込んだんじゃないのかよ）
イシカワは噴き出しそうになった。これだけ精緻にシミュレーションして包囲網を形成できるくせに、まだどうもどこかで抜けている。装備は追尾側には知らされないとはいえ、自分が先に装備を見る機会はあったのだ。おそらく自分にとって必要な装備を探し、他に何があるかはあまり見なかったのだろう。
（セーフの装備、自分のときは見なかったのかよ。先の見通しが甘かったな）
（くそ！）
ブツッと切れた電通に、イシカワはにやにや笑いっぱなしだった。
とにかく、すべての捜索シミュレーションを構成しなおさなければならない。つらつら思い返すと、確かに装備の中には携帯端末があった。まあ、今思い出したところで何の役にも立たないのだが。
全員に、即座にワクチンを入れるよう指示しながら、トグサは次を考えていた。
バトーなら、これからどうするか。訓練時間は残り４０分を切っている。
──撒いたと油断して９課本部に戻るか？──
なんとか探査ウイルスを駆除し終わったところで、残り３０分。
しばらく考えていたトグサは、やがて全員に指示を出した。
（発想を転換する。各自マップを参照して以下の指示通りにシミュレートしろ）
建物の中を抜けたり、建物の上をたどったり、バトーの逃走経路は非常に複雑だ。その動きを辿るのははっきり言って無理なのだ。ならば訓練エリア内を縦横に動こうとすればどうしても通らざるを得ないところ、例えば似たような高さのビルを渡っていける線。カメラの死角をつないで移動できる線。そういった場所を監視していく。
トグサは自分を含めた生身同士のチームを地上に配し、義体化率の高いチームをビルの上に配置した。データを常に共有させるよう徹底し、なんらかの形で網にひっかかったときには全員で事にあたれるようにさせる。
こうしてなんとか追尾網の形を整え、トグサは待った。
残り時間２０分。
トグサは、最後の賭けにでた。
（アルファ２、Ｂ３からＣ２に進入。チャーリー１、Ｃ３からＣ２に進入……）
きちんとトグサの指示に従うようになっていた訓練生たちは、へこたれずによく動いた。
バトーは一人ほくそ笑んでいた。
さっき探査ウイルスを一気に撒いたときのトグサの顔は見物だった。やられた！という驚きの顔こそ、バトーが見たかったものだ。今頃は歯噛みしながらバトーを探索しているに違いない。
そうは言っても、実際トグサの能力の高さには目を見張るものがあった。あの頭の悪い訓練生たちを指揮してバトーをここまで追い詰めたのだ。
――あの訓練生たちを９課に入れても、案外大丈夫かもな――
バカとハサミは使いよう、という意地の悪いことわざを思い浮かべながら、バトーは本部に戻る道でそっと辺りの様子を窺っていた。
さっき探査ウイルスをばら撒いたときに、ついでといってはなんだが、トグサの電通に枝をつけた。残り１７分、油断するつもりはない。
――またフェアじゃないとか言われるかね？――
それでも、バトーとしてはトグサがどういう風にあの訓練生たちを動かしているのか、ひどく気になった。コツがあるなら、少し自分も学ぶべきだ。増員するなら、あの中から選ぶことになる。
――変わっていかなければならないのか？トグサ。お前も、俺も…――
いつまでも、お互いこのままではいられないのか。生きるということは、決して変化と無縁ではいられない。何かと戦い、何かを学び、そうして人は生きている。
トグサの電通に耳を凝らす。
（アルファ２、Ｂ３からＣ２に進入。チャーリー１、Ｃ３からＣ２に進入……）
トグサの淡々とした声が流れこんでくる。指示される相手に押し付けがましさを感じさせない、度量の広さを感じさせる声。それでいて誰もが従わずにいられない声。それはトグサの中に息づく信念と意志の強さに、人が惹かれるからだ。
――トグサ。お前はいつか──
バトーは、トグサの指示に応じる訓練生たちの動きをマップ上で解析しながら、トグサのいるエリアに背中を向けた。
合同庁舎の上層、９課本部は静まり返っていた。
バトーはトグサの電通を解析し続けていた。結局、バトー自身だって、自分が生きていることをまだ楽しんでいる。今回の勝ちはいただきだった。訓練の話で当分はトグサをからかえる。
あの男は途中で作戦を変更した。訓練生たちを網のように動かし、ある種のローラー監視に移ったのだ。それが功を奏した形で、トグサはバトーを見つけたらしい。もっとも本人は９課本部に戻ってきていたから、その男は別人なのだが……。
――奴もまだまだ詰めが甘いな――
自分ではない誰かを、トグサは再び鮮やかに追い詰めようとしている。商業エリアの隅にあるビルに追い詰め、残り時間３分でついに拘束に掛かっていた。
――やれやれ――
さっきトグサの能力が高いと思ったのは錯覚だったか？途中で気づけよ。
なんだかどっと疲れた感覚で、バトーは廊下を歩いていた。
ふ、と人の気配を感じる。肌に馴染んだ気配、これ…これは…
「動くな」
押し殺したトグサの声に、ガチン、と撃鉄を起こす音が重なり、暗い廊下の向こうからトグサが姿をあらわした。バトーがギクリと動きを止める。
「なっっ、お前！何でここにいるんだ」
「いいから手、上げろよ」
トグサの目がぎらぎら輝いている。
今頃になって気の緩みを後悔しても仕方が無い。バトーはむすっとしたままゆっくりと両手を挙げた。
トグサはセブロを構えたまま、ゆっくりと近づいてきて、バトーの顎に銃口を押し付けた。
しばし、二人は無言でにらみ合っていたが、バトーは思い直す。
――まだ訓練は終わってねえ！――
だが、トグサの喉に手を伸ばそうと動いた瞬間、ガッ！と一斉に銃を構える音がして、見ればバトーは周囲を無数の銃口に囲まれていた。
トグサがにんまりと笑う。
「ゲームオーバーだ。バトー。ちょうど昼飯の時間だぜ」
そう、賭けはトグサの勝ちだった。
トグサは、バトーの居場所をおおまかに解析しておいて、まったく違う場所にバトーがいるかのように時間と場所をずらして対応していたのだ。ボーマたち現役との密な連携があったにせよ、同時に二つの追尾をシミュレーションしていたことになる。さらに、その作戦の趣旨をメモ書きの指示で全員に行き渡らせた。探査ウイルスをかけられたときに、バトーはおそらく電通に枝をつけただろう。そう睨んだトグサは電通では違う方の追尾を指示しているように見せかけておいて、互いの対面やメモ書きという非常にアナクロな方法で訓練生を動かした。バトーが解析にかける範囲の外側に少しずつ訓練生の包囲網がずれていくようにして、外れた順に９課本部に戻していく。
こうして、バトーに気づかれることなく９課本部内に全員を集結させて、準備万端トグサはバトーを待ち受けていたのだった。
当直をオペレーターにやらせ、訓練生まで巻き込んで行われた打ち上げは、もちろんのこと９課史上最大のものだった。そこで一番飲まされた者がトグサであったことはいうまでもない。
つぶれたトグサがバトーの手によってどこへ連れ去られたのか、知っているのはバトーだけ――