1
「テコ入れ？って俺達で？」
ああ、訓練生を連中だけで訓練していくより、現役のレベルを見せながら育成したほうが使えるようにならないか、という話になってな、課長と少佐には許可をとった。
次の捜索追尾訓練に出てもいいという気がある奴は出てくれ」
朝の定時ミーティングでバトーは九課の面々を前に宣言した。
組織として新しい人材をいれるかどうか、将来的にそれが必要か否か、個別の１１人事件で、新人を入れたものの失敗した経験を踏まえて、色々検討してみようということになったのだ。検討材料にするため、訓練係長のバトーにはフレキシブルな訓練内容を組む権限と予算が与えられた。そこで考え付いたことを実行してみることにしたのだった。
とにかく今のままでは埒があかない。訓練生を五十人育てて一人使えればましな方というのは、別に九課に限った割合ではないのだが、それにしても最近の訓練生のレベルの低さには目に余るものがあった。
少しカツを入れる必要がある、それがバトーのさしあたっての結論だった。
今回の捜索追尾訓練はＧＰＳなども駆使し、やらないことは電脳ハックとカーチェイス位という、実戦さながらに行うかなり大がかりな訓練である。高度に義体化されたテロリストなどを対象にしながらも機密保持のため人海作戦が出来ないという、かなり難しい事態を想定して行うもので、現役九課では事件がないときに時たま行う訓練だった。
その日訓練に参加したのはトグサ、パズ、ボーマ、サイトー、それに強制参加を言い渡された、アズマを含むいわゆる「二期」の連中。九課本部の２フロア下にある訓練センターに、それぞれが仕事に折り合いをつけてやってきた。老体に厳しいな、とイシカワは来なかったが、国際会議でマレーシアに行っている少佐以外はとりあえずやってきたことになる。
トグサあたりは自分の訓練も兼ねて、などと殊勝なことを少しは考えていたが、他の「一期」の面子はバトーの教官顔を拝んでやろうかという野次馬気分であった。
何せ連中のことである。アズマ達が訓練生達と同じように講義に参加しているのを尻目に、講義の合間にぞろぞろ教室に入ってきて、一番後ろの席に横一列に並んで座る。その様はかなりの迫力である。現役九課が訓練に入るということは訓練生も聞いており、二十人程度の訓練生や新人達は一様に緊張した面持ちで、バトーの講義を聴いていた。
が、緊張時とそうでない時との切り替えがきっちりしているのが九課員の素質とばかりに、現役連中は崩れた座り方で適当にバトーの話を聞いている。パズとサイトーはいつもの無表情、ボーマはにやにや笑ってと、顔つきはそれぞれ。いずれにしても全員から後で何を突っ込まれるかと思うとバトーまでいつもより緊張していた。完全にリラックスモードの連中程面倒くさいものはない。リラックスどころか、トグサに至っては机に突っ伏して寝ているのだ。昨日の事件処理で徹夜したせいで目をショボショボさせていたから、どうやら耐えられなかった模様である。
休み時間、訓練生たちはいつもより静かだった。後ろをうかがいながら、せいぜい隣の者同士でぼそぼそとしゃべる程度である。バトーはそんな訓練生を尻目に後ろに行ってみた。現役連中の印象を聞きたかったのだ。
「どうだ？」
連中の返答はいつも簡潔だ。
「今更わかりきったことを聞くのはつまらん。休憩室で一服してくる」
これはパズ。そのまま火を点けていないタバコをくわえて出て行った。
「なかなか興味深いな。だがこれで使える人員を育成できるものなのか？」
これはサイトー。
「お前はやっぱり訓練教官に向いているなあ。オレなんてあんな要領良く説明なんて出来ないぞ」
とボーマはのんきな口様である。
「違うって。俺じゃなくて連中だよ」
「どうだろうな。見た感じどいつも規格通りという感じで面白みに欠ける」
サイトーが言うとボーマが横でうなずいた。バトーが思っていることと同じことをきっちり指摘してくるあたり、さすがである。バトーはこれからの訓練でどういう効果が出るものか、なかなか興味深いと思った。
それにしても…。組んだ腕に横顔を乗せ、無防備に気持ちよさそうに寝息を立てているこの男をなんとしようか。訓練生に示しがつかない上に、口を微妙に開いた妙にそそる顔を公衆の前にさらしているトグサに、バトーはため息をついた。訓練生達もちらちらと後ろを見て、トグサには特に興味を持った顔を向けている。そりゃそうだ。強面の面々の中に、何やら物腰の柔らかい男が一人混じっていて、しかもそいつがこんなところですーかすーか寝ていれば、誰でもこれが公安九課の正式メンバー？と疑問に思うに決まっている。
実際にはこんな所で爆睡できる図太い神経も持ち合わせているということなのだが、あまり実戦に通じていない訓練生達にそこまで頭は回らないだろう。この訓練が逆効果でヒヨコどもが図に乗ったらどうしてくれるんだ、とバトーはトグサの頭を突っついた。
「んあ？」
と間の抜けた声を発してトグサが顔を上げるのを確認すると、バトーは講義に戻っていった。
一通り今までの座学の復習と今回の訓練の説明をした後、講義を休憩にしてバトーは九課の面々を前の方に呼んだ。マップとルールの説明は終わっている。何をするかといえば、対象の役を誰にするか、である。
手招きをすると、いかにも適当といった感じで連中は教室の真ん中をぞろぞろやってきた。
「さーて、誰が逃げるかだな」
「バトー、お前がやるんじゃないのか？」
質問したサイトーだけではなく全員がそう思っていたようなので、バトーは改めて説明した。
「二回やりたいんだよ。一回目はお前らの中から一人が逃げる。指揮はヒヨコが執る。で、それをきっちり総括してもらって、その後逃げた奴が指揮を執り、俺が逃げる。どうだ？」
「逃げる方と追う方の両方を一人がやって比較させようってことか？」
「そういうことだ。決めるぞ」
つまりはこの中の一人が大きく貧乏クジを引くハメになるわけだ。こなけりゃよかったという連中の雰囲気をものともせず、バトーは妙にうれしそうにその辺のボードでアミダクジなんぞを作り始めている。
「おら、一人ずつ線入れて場所決めろ」
ボーマ、パズ、サイトー、そして寝ぼけ顔のトグサの順にそれぞれが上に名前を書くと、バトーはむふふという顔ではずれの場所から線をたどる。
「おおっトグサだ」
「は？」
「寝ぼけてんじゃねーよ。今日はお前が逃げるんだよ」
他の連中のあからさまにほっとした顔の中、半分寝ながら行動していたトグサが、がいんとショックを受けた顔になるまでたっぷり五秒はかかった。
「おー、目が覚めたか」
とサイトーがからかう。
「俺が逃げるのか？この義体化集団から？」
「おう。がんばれや」とボーマ。
自分でなかったというその事実のおかげで、とたんに他の連中はハイテンションである。
「今日の指揮はバトーが執るわけじゃないんだろ？だったら明日の対象バトーといい勝負になるかもな」
「よし、どっちが勝つか賭けるぞ。イシカワに連絡しろ」
……完全に面白がっている。
わいわい盛り上がる連中を、訓練生たちはただただ唖然と見ているのだった。
改めてバトーとトグサはその場で簡単なブリーフィングを行った。
「セーフ出てから五分で開始って短くないか？」
「そーか？見つかったら逃げろ。捜索追尾訓練なんだから」
「にしたって、走って五分の範囲なら大した捜索訓練にはならないだろ。車両は使えないわけだし」
結局、用意されたセーフをトグサが出てから十分後に捜索追尾が開始されるということで、ルールが確認された。
今回に関しては、双方が電脳ハックなどの違法なネット操作をしないこと、車両は一切使わないこと、対象はセーフ内に用意された装備のうちから必要と思うものを好きに使用すること、などの条件が課される。
「なあ、旦那？」
トグサはやる気がなさそうにセーフ内の装備やマップの確認をしていたが、ふと思いついたように顔を上げた。ハシバミ色の瞳の奥がいたずらっぽく光っている。それを見て、トグサにエンジンがきちんとかかっているのがバトーにはわかった。
頭のいいこの男は、対象に選ばれた瞬間から、計算ずくで行動している。やる気のない態度はフェイクで、義体化率の高い訓練生どもを油断させる腹だ。さっきまでぐうぐう寝てやがったくせに、一瞬でそれを自分に有利な状況に変えるその機転に、バトーは笑いをかみ殺した。
「なんだ」
「負けた方がオゴるってのはどうだ？」
訓練生に聞こえないように耳元でトグサがささやく。ふわりと息を吹きかけられると、バトーの下半身にぞわりと熱が這うのがわかる。トグサは無意識にやっている、というのはその屈託のない顔を見ればわかるのだが、実際にはその方が始末におえない。今この場で強引にうなじを舐め上げたらこいつはどうするだろうか、などと不穏なことを考えながらも、会話に応じてやることにした。
「んじゃ俺はこの間出たエキスパンダー」
「げっあれ高いじゃないか。それならこの間言ってた店のＡコース、女房と二人分だな」
「いいだろ。あのエキスパンダーは欲しかったからな」
「……最初っから勝つ気かよ」
「当然。じゃなきゃ誰が乗るんだよ」
「言ってろよ」
トグサの方も負ける気が無いのは、その目を見ればわかる。力強い、まっすぐな瞳。見るものを射抜くような目つきが、むき出しになることは実は少ない。だがふとした瞬間に見せるその目こそが、バトーを捕らえて離さないのだ。
――こいつを弱いと思う奴は、結局人間を見る能力が無いってことなんだろうな――
トグサを対象とした捜索追尾訓練は、なかなか手ごわいものになりそうだった。
2
トグサがセーフに着いたのを確認したところで、バトーは教室のスクリーンモニターのＧＰＳを一旦切り、再起動した。今後は訓練生達がトグサに探査ウイルスを仕込むなどの行動がなければ、訓練終了までＧＰＳにトグサの居場所は表示されない。訓練評価のみのバトーだけが、暗号通信でトグサと通信したり、ある程度の居場所を知りうる立場となる。
打ち合わせ通り、１３００時ちょうどにトグサからバトーにセーフ出発の暗号通信が入り、１３１０時にバトーは訓練開始を宣言した。
訓練生達は２人ずつバデイを組んで動く。ただし今回はアルファ−１、アルファ−２、ブラボー−１のそれぞれにオブザーバーとしてサイトー、パズ、ボーマが加わる。
指揮系統の確認はとっくの昔に終わっているので、訓練生達は担当エリアに即座に散った。バトーに言わせればはなはだ甘いが、連中の初動配置はセーフから半径徒歩１０分の円上にある。現役連中ならこんなことはしない。あらかじめ徹底的にマップを分析し、セーフ近辺に潜んでやり過ごせる場所の検索から徒歩、走り、果ては普通車両、バスといった車両の種類に応じた速度分析までをこの１０分でこなす。相手の義体化率に応じた速度分析も怠らず、３次元的にマップを見てどの経路が一番うまく逃走できるかを犯人の思考回路をたどって探りだすのだ。
今回のトグサの義体化率は非常に低いが、３０代で運動神経と頭脳がバランスよく優れた男、しかもこっちのやり口をよく知っている人間が、普通にのこのこ歩いて直線経路を辿るはずがない。同心円上に非常線を張るのは警察が良くやる方法だ。これは人海戦術が効く大規模組織ならではの方法であり、少数でハンターのように追い詰めることを生業にしている９課に入ろうと思えば、こんな１人１人が受身な作戦では決して採用にはならない。
「わかってんのかね……」
バトーは１人残った教室の先頭の席の椅子に座り、デスクに足を乗せて溜め息をついた。
散々講義したはずなのに、どうしてこうも出来が悪いのか、逆に理解不能である。
オープン回線でやりとりされている訓練生同士の会話を聞きながら、バトーはトグサになりきって逃走経路をシュミレーションしてみた。日ごろからこういうことをしておくのは、実はバトー達にとってもいい訓練なのだ。
トグサなら――セーフ内の装備の中から何を持ち出すか、トグサにとってはそこから訓練は始まっている。セーフ内にはショルダーバイク、スケボー、中には最大体力を一時的に増大させるアヤシゲな薬も一応置いてある。ラペリング用のロープ、パラシュート……移動に役立ちそうなものはとりあえずそんなところか。トグサなら、持ち出すものはおそらくショルダーバイクとロープ。水平移動と垂直移動の両方をおさえて装備を選択するはずだ。だが下手をするとショルダーバイクを持って出たかは怪しい。乗っていれば街中では目立つし畳んでもかさばる。偵察用に赤外線スコープ、望遠スコープ、双眼鏡、集音マイク。この辺はわからない。昼間だから赤外線スコープはいらないとしても、望遠スコープあたりは絶対に持っているはずだ。武器は…全ての武器にペイント弾が用意されているが、トグサが長距離スナイピングなどするわけが無い。持って出るのはマテバだけだろう。他に持つとすれば逆にＰＰＫのような小さいもの。
で、どういう経路をたどるか――
そこでサイトーから暗号通信が入る。
（おい、この訓練の指揮者はどうやって選んだんだ）
（自分達で選ばせた。どした？）
（話にならん。トグサならショルダーバイクを使い捨てにしてとっくの昔に３０分圏内に出たか、セーフの近くでＩＲのハッキングをしてるか、どっちかだ）
ボーマが割って入る。
（俺は後者だと思うな。バイクならＩＲに全部映っちまう。ＩＲ検索をかければ一発で辿られる。こっちが検索をかける可能性を考えて、裏をたどろうとするだろう）
（だろうな）
街頭カメラがプライバシーの侵害にあたる、などという法理論は二昔前の話だ。いまや判例上、街中を歩いている限り、プライバシー権やら肖像権などというへったくれは事実上存在しない。法改正もされ、捜査機関がＩＲシステムを利用することは訓練も含めて合法である。現に訓練生達はすでにＩＲの検索にかかっている。トグサはそれに乗っかり、うまく隙をついて動こうとするはずだ。
訓練の目的からすれば、要するに見つからなければいいのである。極端な話、これから３時間、一箇所で粘っても全然かまわないのだ。
だが訓練生達の行動は頭痛がするほど硬直的だ。上意下達が徹底されること自体は絶対に必要だし、そのせいで今回トップで指揮をしている者の無能さが際立つわけだが、実は下について行動している他の者の行動もどうにもならない。
オープン回線に、珍しくいらいらした感情を押し殺したパズの声が入る。
（お前は上を見てろ。このポイントなら、対象は必ず上を渡る）
（ですがビルとビルの間は２０メートルはありますよ）
（だからだ！対象はラペリングロープを持ってる。ＩＲを覗いて、こっちが目を離した隙に決行されるぞ！）
――奴らのバカっぷりはわからん――
これほどあからさまに、現役連中全員がトグサの装備を正確に把握しているというのに、エリート意識ばかりが先に立つ訓練生達にはそれがわからないらしい。
トグサの思考はおそらくこうだ。装備はショルダーバイクとロープ、スコープ、最低限の武器。それとマーカーつまり発信機。それから携帯端末、服、現金。奴なら街にあわせて一瞬で着替えるだろう。義体を取り替えることしか知らない訓練生たちは、時間をかけずに外見を変えることが意識から抜け落ちていることが往々にしてある。
セーフを出た後、奴はおそらく上に行く。いきなり動くことはしない。まずはＩＲを覗き、訓練生達の配置の傾向を掴む。もしレベルが高くて動きを読んでくるなら、隙を突いて非常線を強行突破し、いきなりエリアの中で一番人通りが多い場所に入る。レベルが低くてのろのろしているなら、捜索側がじれて非常線の円を広げるまで中で待つ。セーフに戻ることは許されていないので、潜むとすればセーフからあまり離れておらず、近づいてくる者がすぐわかり、向こうからは見えにくい場所。セーフの入っている雑居ビルの屋上から渡った隣のビルの、上から一階下がったあたり。ここなら屋上伝いに簡単に逃げられて、近づく者が丸見えだ。いるとすればまだその辺り。
ためしにバトーはＩＲシステムを呼び出してその辺を検索した。該当ビルの窓をズームすると、一瞬窓の桟に影が動いた。
「どんぴしゃりだな」
暗号通信を入れてやる。
（とーぐさー。お前さぼってないで動けー）
（旦那！何連絡してきてんだ！これ、非常用だろ。意味なく邪魔すんな）
クソ真面目に怒ってきたトグサの声にあわせて、インターフェイス内の映像の中でちょろりと見える髪が揺れる。
（そこで３時間粘るつもりか？）
（あんたに行動読まれてたまるか。切るぞ）
真剣に怒っているらしく、電通は一方的に切れた。同時に映像の髪の毛もすっと消えた。動くことにしたらしい。
――このままじゃ面白くないからな――
ふふん、とバトーはほくそ笑んだ。
さーて、トグサはどうするか？バトーが再び考え始めたところで、訓練生たちの会話にボーマの野太い声が強引に割りこんだ。
（おい！ブラボー１移動するぞ！）
（ポジション移動は上の許可を…）
（だから今とってるだろ。ブラボー２が見えてる。２グループがつるんでどうするんだ。本部、ポイントＤ３に移動する）
（りょ、了解した。ブラボー１はポイントＤ３に移動）
ボーマの班の面子が不満そうな声を出しているのがばっちり聞こえている。
（なぜ移動するんです？ここでも…）
（いいか、対象の行動を読め。ぞろぞろ敵がいる場所に姿を現すわけないだろう。いい加減事前検討なんて忘れろ。手薄なところにまわったほうが鉢合わせの確率はあがる。お前達も成績があがるぞ）
……うまいこと訓練生のプライドをくすぐることにしたらしい。
その会話を聞いて、おお、とバトーは思わず身を乗り出した。うまいぞボーマ！このコースで行けばトグサの移動コースとかち合う。探査ウイルスを強引に仕込めばこの訓練はこっちのものだ。この場所ならトグサはロープを使っても渡るのは割合困難であるため、地上を移動しているはず。ボーマが走る！建物の角を曲がればトグサの突破コースだ！行け！
「あ」
ボーマの声とバトーの声が重なった。
ボーマが角を曲がり、バトーがＩＲカメラに乗った瞬間、ビルの谷間をトグサが飛んだ。いとも鮮やかに逆放物線を描いて反対のビルに渡り、ショルダーバイクを背負った状態でドンと壁に足を置いておいてからガシガシとロープを登って、目をつけておいたのだろう、開いていたトイレの窓からするりと中に消えた。
「やられた……」
ぎりぎりの長さながら向かいのビルからロープを打ち込んでおいて、ストラップをつけたままのショルダーバイクに乗り、勢いをつけてターザンよろしく２０メートルを渡りきったトグサは、肩からバイクを提げたまま強引にショッピングとビジネスの複合巨大ビルに潜りこんだのだ。
完全にやられた。まさかここを空中移動されるとは。ロープとバイク同時使用までは考えていなかった。
「あ…あのバカ…」
まったく、妙なところで負けず嫌いなトグサの行動に、正直バトーだけでなく、現役連中全員があんぐりである。訓練ごときで生身の男が地上１０メートルの高さの場所で２０メートルの幅を渡りきるなど、前代未聞だ。
（面白くなってきたな）
ボーマが剣呑な笑いをふくんでつぶやき、訓練生に指示を出す。
（出口を固めろ！ここから逃がすな。ブラボー２、応援を要請する。おい！お前は俺と屋上に回るぞ）
ここで一気に包囲網を狭めてこっちのペースに持ち込まないと逃げ切られる。人員を集中させてボーマが走る。
ブラボーチーム全員が全ての出入口を掌握にかかった。さあトグサ、どこから出る？バトーは久々に面白い訓練に、スクリーンモニターで観戦することにした。訓練生やボーマの視覚情報、ＩＲの画面を分割で出して本格的な分析をやってみる。出来ればトグサの視覚情報が欲しいところだが、さっきからかったおかげで自閉モードにされてしまい、ハッキングをしないと目に乗れなくなってしまった。
ここからの行動は少し迷う。変装して地上を行くか、そのまま空中を移動するか。一度派手に飛んだので、訓練生達が真面目に空中も警戒するようになってしまった。とするとあまり続けてこの手を使っては来ないだろう。だが待てよ、そうやって地上を移動すると思わせておいてもう一度空中を飛ぶか？それともやはり変装かなにかで地上を突破するか。
バトーが迷っている間に、訓練生の一人の声が入った。
（出てきた！正面入口だ！）
んーなわけないだろうが。バトーがそう思うのと同時にサイトーのつぶやきが入る。
（それ、トグサじゃないと思うがな）
そう、おそらくダミーだ。だがＩＲを見ると、紺のＴシャツに水色のジャケットを羽織った茶色の髪の男が、今まさに訓練生達に拘束されるところだった。
おいおいおい…。少し立ち止まって考えろよ。バトーがあきれている間にも、一人の訓練生が男を強引に地面に伏せさせ、銃を突きつけて両手を頭の後ろに組ませている。他の訓練生達もばらばらと走り寄ってきた。通りすがりの一般人が何事かと不安そうな顔をして立ち止まる。
ボディーチェックを済ませて立たされた男は、やはりトグサではなかった。
案の定、背格好と髪の色が良く似た人間に自分の服を着せ、ビルから送り出したのだ。トグサのことだ。適当に、昔ストーカーされた女に追いかけられているとかなんとか言いくるめたに違いない。とっつかまった男はモニターで見てもわかるほどぶるぶる震えている。
（くそっやられた！！ ＩＲで対象を検索しろ！）
指揮者の声が全員に響く。さーて、ＩＲ検索でひっかけたとして、本人は見つかるか。バトーが自分で検索してみると、ダミーは他に２人。よくもまあこれだけ短時間に３人もダミーを作ったものだ。いかにもトグサっぽいジャケットの男を認めて、バトーはにやにやしっ放しだった。対象のデータだけを見て、自分の感覚で対象自身を把握する訓練が出来ていない者達が、一瞬ひっかかるような人間ばかりを選んで似たような服を着せて送り出している。
で？トグサ本人はどこに行った？
普通に考えればこちらがダミーに気をとられている隙に、同じ場所から出る。それがセオリー。試しに見ると、正面玄関の男に訓練生達が飛びついている後ろを、迷彩柄のハーフパンツをはいて白いＴシャツにカーキ色のパーカーを着込み、青い野球帽を目深に被った男が一人、顔がＩＲカメラの死角になるようにすっと出て右に折れ、足早に立ち去るのが一瞬映っている。
あれか…？確かにトグサのようだが、何かがひっかかる。セオリー通りでいくならあれはトグサなのだが。
バトーは考え込んだ。何が違う？その１。ついさっき、はちゃめちゃなことをしておいて、今更セオリー通りに行動するとはあまり思えない。その２。歩き方が妙におどおどしている。その３。直感。ま、いわゆる『ゴーストの囁き』というやつだ。ま、訓練生達は確実にひっかかるだろう。
その辺のことは放っておいて、バトーはスクリーンモニターいっぱいにビルのすべての出入り口と屋上カメラの過去ログを映し出した。どこから出た？１０分割して裏口まで映したが、トイレの窓、トラックの荷台、あらゆる可能性を考えたとき、当然これでも足りない。
正直ここからの読みは難しい。ダミーに紛れて出ても、ＩＲで解析して数分遅れで足跡をたどり、最終的には先回りも可能になってくる。それを少しでも遅らせることのできる道を行くためには？繁華街に出るか。裏から路地を抜けるか。矢継ぎ早に様々な要素で検索をかけてトグサを探しながら、バトーはサイトーに暗号通信をいれてみた。
（サイトー）
（なんだ？）
（どこから出たと思う？）
（奴はまだ中にいる）
あっ！と思った。確かにこのビルは巨大だ。地下３階から地上５階まではショッピングモール、６階から２０階まではオフィスエリア、その上はホテルになっている。隠れようと思えば簡単に隠れられるだろう。言われてみればトグサは中という可能性は大きい。これだけダミーを繰り出せば、誰でもそれに紛れて出ると考える。だがこのビルなら残り２時間半、隠れることは不可能ではない。
――そこまで考えてこのビルに飛び込んだのか――
訓練生相手でも手を抜かないトグサの行動が面白い。同時に、一箇所に滞留する可能性を自分より先に見抜いたサイトーも、スナイパーだよなあ、と実感させられる。
９課はだからやめられねぇんだ。バトーは生身のときの名残の癖で、首をぐりぐり回した。ま、骨は鳴らないが。
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膠着状態のまま、１０分が経過した。３時間と区切られた、しかも９課の訓練で、これは致命的な無駄だ。
バトーはいらいらしてきた。トグサがこれだけ動いたとなると、次はこちらから一気に仕掛けなければ、残り２時間、トグサに逃げ切られて、こちらは煮え湯を飲まされる。
時計を眺めながら、ぎいぎい鳴るのもかまわず、バトーは後ろに傾けた椅子に体重をかけた。
――ったく、使えねえ――
ボーマが主に指揮して、屋上から周囲を見下ろしているが、トグサはおそらくまだ中。数という力を使うことが出来ない９課の性質上、これが正直限界だ。このなかから一人でいい、スタンドプレーでもしてくれれば採用の突破口が開けるのだが。いい加減、現役連中のいらつきが頂点に達しているのが、オープン回線の会話でうかがわれる。
（おい！どこ見てる！常に三次元でマップを捉えろ！）
ボーマが凄めば、
（その頭は何のために体の上に乗っている。使え。そこを回り込んで監視しろ）
パズが冷ややかにつぶやく。
ついに、サイトーの暗号通信がバトーに入った。
（おいバトー、聞いてるか）
（なんだ）
（このままじゃ埒があかない。訓練の中からレベルの高い新人を見い出すのは無理だ。そう思わないか？）
（まあ、それは言えるがな）
バトーは思いついて、回線をオープンにした。全員の電脳内に、サイトーの静かに押し殺した声が響く。
（俺達の時代は、戦争の中で自然淘汰されて残った強い個体が現れるのを待てばよかった。今は違う。戦争は終わった。訓練生の中から強い個体を見出すのは不可能だ。なんとか素質のあるものを見い出し、俺達のやり方を徹底的に見せて、育てていく他ない。
トグサのような存在こそが奇跡なんだ。俺達はいつまでも奇跡に頼ることは出来ない。この先、最終的には人員を増やし、質を量で補う方向に進むだろう。
そう、思わないか？モサドのやり方を真似る方法もあるが、今の日本でそれがうまくいくとも思えない）
（……サイトー）
それは現役の誰もが、口には出さないが思っていたことだった。結局、少数精鋭という性質にこそ、ゴーダにいいように振り回された９課の弱みが潜んでいる。ほんの少し頭を抑えられてしまえば、いいように操られてしまう。その悔しさが全員の意識にある。
（確かにこの訓練、訓練生達の指揮でやったところで収穫はない。一度俺達のやり方を見せてやらなければ、何を求められているのか、連中はそれすらわかってはいない）
ボーマも静かに言葉をつむぐ。
（で、どうする）
答えなど、とうにわかっている口ぶりでパズが問う。
バトーは静かに息を吸った。訓練の打開策は、自分１人では開けない。個と集団との絶妙なバランスこそが９課の持ち味である以上、自分という個だけではうまくいかない。バトーはそれをわかっているからこそ、現役連中を訓練に投入したのだ。
一度９課が集団として動くところを訓練に組み込んでみたらどうなるか。実際バトーが考えていたのもそこだった。
望むところだ。バトーは実戦の中で培われた自分の感覚が狂ってはいなかったことに満足しながら、電通に自らの意志を乗せた。
（今、現場に立っているのは俺じゃねえ。現場の判断に任せるぜ。元々それが目的でお前らを呼んだんだ。好きにやってくれ）
ふふん、とボーマが笑う。
とうに互いの意志の疎通は出来ている。
（いいだろう。これより以後は、俺達が仕切る）
全員の電脳内に、剣呑な笑いを滲ませたサイトーの宣言が響き渡った。
（狩りの時間の始まりだ）
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それからの動きは劇的に速かった。
サイトーとパズ、ボーマの三人が一斉に指示を飛ばす。元々、作戦時に指揮者が死ねば順次指揮者に繰り上がる、そういう世界のプロである。普段は指揮者に従うが、いざというときに指揮者になることが出来ないような人間は９課にはいないし、必要もなかった。
屋上にいたブラボーチームの訓練生をボーマが把握し、地上ビル外からショッピングモールまでの訓練生をパズが掌握した。サイトーが警戒網の外縁に展開していたアルファチームの訓練生を束ねる。
それぞれがほぼ一言ずつで３小隊に分離し、鮮やかに包囲網を形成していく。
（ブラボーチーム、下りるぞ！全員違う経路を辿り、ホテルに上がるすべての場所をシールしろ！コガ！エレベーターホールのカメラデータから目を離すな。全員３画面ずつカメラデータをモニタリング）
訓練生の不満そうな声が入る。
（外部に脱出の可能性はどうするんですか？）
（アルファ‐１に任せる。我々は内部を上から掌握にかかる）
パズはパズで既にアルファ‐２とチャーリー‐１、２をショッピングモールに展開していた。不特定多数の人間が出入りする、もっとも掌握の難しいエリアを、矢継ぎ早に訓練生を動かして効率よく出入り口につながる経路を封鎖していく。
（シールの必要はない。対象をビジネスエリアに追い込め。いいか、出てくる者をチェックする必要などない。我々が動くことで、対象が勝手に自分から追い詰められていく。カメラデータを１人２画面ずつモニタリング。トイレを見逃すな！キムラ、アズマ、エリアが重なってるぞ。全員、マップの共有をないがしろにするな！６ブロックずつに分割したエリアファイルを塗りつぶせ！もたもたするな。オオハシ、女子トイレの個室を確認していない！感情をいれるな。トイレは５秒で全個室まで掌握！遅い！！）
外からの監視はすべてサイトーのアルファ−１受け持ちとなった。
（アルファ‐１は個別に動く。マップ参照。全員５分以内にそれぞれマークしたビルの屋上に上がれ！！ナガヨシ！ＰＳＧ−１の狙撃用意！もたもたするな）
（対象はオフィスエリアに入ったはずだ！コバヤシ、ショッピングエリアの紳士服売り場のレジデータに潜れ。この２０分以内にスーツまたは男物の衣類が購入されたレジのカメラデータ呼び出し！）
（ありました！！対象が８分前にスーツを購入しています！）
１人の訓練生が上ずった声で報告を上げると、明らかに全員が色めき立った。一斉に動きが速くなる。トグサが６階から２０階までのビジネスエリアに、着々と追い込まれていく。地上を逃げることは難しくなった。ロープで飛び移るとすると、生身の体では６階が限界だ。つまりトグサは決して６階から上には行くことはない。地面まで１３メートルほどが、人間がもっとも恐怖を感じる高さであるという。トグサは一度それに近い高さを渡りきっているが、逆にそれ以上は生身の体では無理であるとも言えるのだ。とすれば、パズが５階のショッピングモールに下りる場所をすべて掌握した時点で、捜索追尾側の勝ちは決まったも同然。あとはゆっくり追い詰めればいいだけだ。ビジネスエリアのカメラにはすべてテナント企業ごとの高度なセキュリティーがかかっていて、訓練生達が枝をつけるのに手間どっているが、あと数分もすればデータを共有できるだろう。
パズの指揮する訓練生が４階から５階の掌握にかかっていた時、突然訓練生が電通でわめいた。
（対象を発見！！４Ｆ３３ブロック階段を降下中！！）
全員のインターフェイスに、スーツ姿で階段を駆け下りてくるトグサを下から見上げるアングルで映像が飛び込んできた。訓練生の一人が階段を登ろうとしたのと鉢合わせしたということだ。見るからに焦った顔をしたトグサは訓練生の顔を見るなり身を翻して階段を駆け上がっていく。おそらく鈍臭い訓練生の隙をついて正面玄関から突破しようとしたのだろうが、これでトグサは地上を逃げる経路が完全に絶たれたことになる。
（逃がすな、必ず拘束しろ）
パズの恐ろしいほど冷静な声に、鉢合わせした訓練生は死に物狂いで階段を駆け上がっている。だが全員が注視する中、揺れるインターフェイス画面が階段の踊り場を回り込んだ先に、トグサの姿は無かった。
（すみません…逃げられました…）
ここでトグサを拘束して華々しく採用をもらう自分を一瞬想像し、躍り上がる気分だったに違いない訓練生の蚊の鳴くような声に、まったく期待していなかったサイトーが次の指示を全員に飛ばす。
（完全にビジネスエリアに追い込んだ！狙撃！準備できたか！！）
（あ、あと３分…）
（馬鹿野郎！訓練前に調整してなかったのか！）
（設置に手間取って…）
（ほふくで撃て！スタンドの調整なんぞやっていたら間に合わん）
（はい！！！）
トグサの居場所が矢継ぎ早に絞り込まれていく。
追い詰められたトグサは必ず自分から突破しようと行動を起こす。それがサイトーの読みだった。狙撃担当の訓練生を呼ぶ。
（ナガヨシ！お前の正面に対象が出る！逃すな。必ずペイント弾を撃ちこめ）
（了解しました！！）
まさにその言葉通りに次の瞬間、裏通りに面していて隣のビルとは数メートルしか離れていない方のビル側面、６階のトイレの窓ガラスが派手な音を立てて割れた。ナガヨシのポイントからはビルとビルの隙間が正面に見える場所。先ほどから全員が、今度はナガヨシの目に乗っている。
（撃て！！！）
サイトーの声にかぶさるように、ＰＳＧ−１からペイント弾が飛び出した。
5
ターンン！という遠距離狙撃特有の音を残して、銃弾はブチ破ったトイレの窓から出ようとしていたトグサの鼻の先を掠めて飛んでいった。勘の鋭いトグサが一瞬で顔を引いたからだ。
コリオリの法則まで熟知した手練のサイトーなら、風速や風向などの物理的法則のみならず、相手の心理や行動まで読んで最高のタイミングを直感でたたき出すのだろうが、いかんせん訓練生はそうもいかない。
「くそっ！」
しくじった！サイトーもパズもボーマも、瞬時にエリア封鎖の指示を飛ばす。
訓練生はやはり訓練生。失敗は常に予測の中に入れていなければならない。
それよりも重要なのは、この狙撃失敗でトグサに包囲網の存在を確定されたということだ。トグサが鼻先を引っ込めた瞬間に、手札を切るタームはトグサに移った。そのことを３人は強烈にわかっている。時間がすべてを決する。
（絞り込め！トグサのいたブロックを封鎖！外に出すな！！）
ビジネスマン達が何事かと唖然と立ち止まって見る中、訓練生達は死に物狂いで走らされる。
（遅い遅い遅い！！）
ボーマがドスを効かせて追いたてる。
そしてついに、ビジネスエリアのカメラセキュリティの解除に取り組んでいた訓練生の電通が入った。
（カメラデータ取得！映像流します！！）
（よこせ）
全員のインターフェイスに、一斉にさっきのトイレの出入り口、廊下、ブロック内の企業パーテーション内部が映しだされる。
（対象は？！）
トグサの姿はどこにも無かった。
間一髪で顔面にペイントをぶちまけられる危機を脱したトグサは、顔を引っ込めたはずみにトイレの床に背中から転げ落ちた。
「くっそ…」
打った腰をさすりながら立ち上がったトグサは、今の狙撃ですべてを理解した。
――やられた――
さっき階段で訓練生と鉢合わせした時、まさかとは思ったが、この鮮やかな狙撃のタイミングは確実にそうだ。
むっかあ、という怒りが湧いたが、とにかく逃げ切らなければ後で皆に何を言われるか、わかったものではない。
「もたもたしてられない、か」
トイレ入口にカメラがあった。出れば負けだ。
だが、狙撃に頼ったということは、まだ内部に入った訓練生達が包囲網を完成させるのにもたもたしているということか……。ここに踏み込んで来るまでまだ１０数秒。
トグサはそう睨んだ。
「さて」
ぐるりとトイレ内を見回したトグサは、とりあえず個室の便器の蓋に乗り、天井ダクトカバーをひっ剥がした。
「ま、お約束ってやつだ」
狙撃失敗の瞬間はバトーも見ていた。
ぎりぎりだった。訓練生の腕はサイトーに比べれば見る影もないが、平均よりは悪くない。むしろトグサの勘の方が上手だったと見るべきだろう。
「相変わらずだな」
椅子の背もたれに寄りかかりながら、バトーは腕を組んだ。
訓練はひたすらドタバタと化しつつある。これだけ動きのある訓練も珍しいから、訓練生達はさぞかしバテるだろう。
さぁて評価をどうするかだよな、などとバトーが考えていたとき、暗号通信が入った
（バトー…）
地を這うような声は、トグサだ。
（あんたの差し金だな）
（おうトグサ、頑張るなー。今ダクトの中か？）
カメラデータを共有して見ている中にトグサがいないということは、可能性は一つしかない。
（そこはあんまり長居できねーぞー）
のんびりからかってやると、トグサは案の定ぎゃんぎゃんわめいてきた。
（わかってる！！！余計なお世話だっ。くそ、あんた、やりやがったな）
――相当怒ってんな――
負けず嫌いのトグサが何を考えているか、わかるだけにバトーはぞくぞくする。
（なんのことだ？）
（しらばっくれるな！！サイトーたちに指揮権移動させただろう！！）
（ああ…やっとわかったか。電通に枝つけてなかったのかー？）
トグサは怒り心頭という声で、区切りをつけてがなった。
（お！れ！は！あんたと違ってフェアに物事やりたいの！！）
ブツン！と音立てて、暗号通信は切れた。
今頃どんな顔をしているか、想像はつく。
――いいねえ。今夜は抱かせてくれるかね――
さぞかし燃えてくれるだろう。
バトーが相も変わらず助平なことを考えているあいだに、訓練生たちはトグサがいたトイレに踏み込み、ボーマにどやされて二人がビル設計図の検討に入っていた。
パズが手際よく下の階に降りることの出来る場所をシールさせていく。
（ダクト内は縦の移動に困難を伴う。必ずどこかで出る。移動速度は速くない。立ち止まるな！）
一瞬抜けてしまった緊張感を、３人がもう一度締め直そうとしたとき、あっけにとられたような１人の訓練生の声が入った。
（あの、対象が、歩いています……）
確かに、さっきのトイレのあったブロックのすぐ隣の企業ブロックの中を、スーツを着たトグサが落ち着き払ってすたすた歩いていた。周囲のビジネスマンたちは、トグサの違和感のなさに、誰も注意を払っていない。目撃した訓練生の視覚情報にも、カメラ映像にも、あらゆる画面にトグサが堂々と映っていた。
（拘束します！）
最初に報告してきた訓練生とは反対方向から同じ廊下に進入した訓練生が、上ずった声で電通をするとトグサに向かって走り出した。報告した訓練生も慌てて走り出す。
トグサは、両側から迫る追っ手にちらりと視線をやると、さっきから数人がせわしなく出入りしている手近なドアから、するりと部屋に入っていった。
最初に気づいたのはパズだった。
（ダメだ！その部屋に入るな！引け。一旦引け！！）
だが、完全に上ずっていた訓練生達は言うことを聞かず、トグサの後を追って部屋にどかどか踏み込んだ。
視覚情報を全員が見ている。３０畳ほどの広い部屋。ずらり並んだデスク。まわりで仕事をしていた４０人以上のその会社の者たちが、全員静まり返ってある一点を見つめていた。その中心、並ぶデスクの上に立ち、トグサが１人の会社員をデスクの上に引きずり上げて、セブロＭ５を突きつけていた。
6
何の変哲もないスーツ姿のトグサ。一瞬前まで誰も注意を払っていなかった男。それが突然デスクの上に乗っていた物を乱暴に取っ払って飛び乗ったと見える。床にはファイルや書類、筆記用具の類が散乱し、周り中の人間が引きつった顔で硬直していた。
トグサはデスクの上に引きずり上げた男の首を押さえ、全員からよく見えるように自分は中腰のまま、男の心臓ど真ん中にセブロを押し当てている。
訓練生２人はドアから踏み込みその光景を目にして、ぎょっとして立ちすくんだ。その一瞬、トグサが部屋中に響き渡る声を張り上げた。
「全員、死にたくなければ今すぐこの部屋を出て行け！」
トグサは傲然と犯人を演じていた。哀れ人質にとられた男は、インターフェイスで見てもわかるほどにぶるぶる震えている。
部屋に踏み込んだ途端、力のこもった目がまともに訓練生をにらみつける。
「来るな」
低い声で正面から言われ、一瞬訓練生達はすくんで止まる。
しかし、指揮者のパズが緊張した声で次の指示を出した。
（部屋に入ってしまった以上、しかたない。いいか。対象に絶対に撃たせるな！周りに目をやるな。集中、拘束！！）
訓練生たちは訝しく思った。そう、セブロに込められている弾はペイント弾だ。たとえ撃たれても命に別状はない。
なのに、トグサはいかにも真剣に人質をとっていて、そして指揮をしている現役３人はこの訓練中最高に緊張して指揮をしている。現役連中の奇妙な緊張と焦り。
――なぜ――
訓練生が一瞬の疑問を抱いた、その瞬間に、
トグサが引き金を引いた。
パンッと乾いた音がして、人質の顔が死を意識した恐怖に歪んだ。
トグサは銃口をぴったり人質につけたまま離さず、もう一度がなった。
「死にたくなければ、全員出て行け！！」
それがきっかけだった。すべての流れが変わった。飽和状態に達した恐怖が一気に爆発したのだ。部屋の中にいた、九課と関係のない人間全員が、一気にパニックに陥った。
ううううわあああああ！！！！
全員がドアに殺到した。制止しようとした訓練生達をなぎ倒し、４０人以上の人間がドアに押し寄せた。我先にと部屋から出ようとする。互いが互いの顔を引っかき、障害物を蹴散らし、駆けつけた他の九課訓練生たちも突き飛ばされ、何もかもが収拾のつかない状態になだれていく。
そのわずかな合間、パニックになった人間の間でもがきつつ廊下に押し流されながら、訓練生たちが揺れる視界の隅で見たものは、落ち着き払って人質の男を放り出し、どこで調達したか、ポケットから取り出したライターで、頭のすぐ上にあった火災探知機にその火を押し付けるトグサの姿だった。
そうか！そういうことか！！
訓練生達が理解した時には遅すぎた。
トグサが怒ったような顔でぶわりとライターの火を振り回すと、瞬時に巨大な複合ビル全館に、火災を告げるけたたましい非常ベルが鳴り響き、オペレーターの声で全館に放送が入る。
「只今、本館６階におきまして、火災が発生いたしました。館内のすべての方は、店員及び係員の指示に従って、すみやかに退避してください。館内すべてに短時間で火災が及ぶことはありません。落ち着いて対処していただくよう、お願いいたします。繰り返します――」
さっきの人質騒ぎでパニックに陥った人間が、非常ベルによってさらに恐慌状態になり、それが非常ベルをバックに館内に拡散していく。カメラで見ていた警備の者もそれを見て何事かと焦る。たった一発の銃声と、たった一個のライターが、館内すべてを大混乱に陥れたのだ。
ホテルの客は驚き慌てて浴衣のままビジネスエリアを走りまわり、ショッピングモールの人間達はすごい形相で売り場を走り抜けるビジネスマン達に追い立てられるように会計もせずに商品を持ったまま走る。警備員が怒鳴り、店員がわめく。誰かが押し倒されて悲鳴をあげ、ある者はこの期に乗じて商品を持ってトンズラをしようと抜け目なく動き回る。またある者は何事かとズボンの前たてを閉めぬままトイレから飛び出し、ある者は緊急停止してしまって来るはずのないエレベーターのボタンを押しまくる。
訓練生たちが事態を収めようとやっきになっても、大移動を始めたレミングのように、もはやあらゆる出口に殺到するその動きは止まらない。
当のトグサは、もう、どこにも見当たらなかった。
「あ〜あ。あの野郎、やりやがった」
バトーがため息をつく。ただの訓練にやりすぎ、と人は言う。負けず嫌いもここに極まれり。
――明日は賭け金取り戻すのに、本気モード出さねーとなこりゃ――
ガッタンと椅子を床に戻して、評価する俺の身にもなってくれよ、とバトーは鼻から息を吹いた。
（………ＩＲを解析しろ）
すでにして、非常にやる気をなくしたサイトーの気の抜けた声が入る。
これだけの人数、これだけの動き。ＩＲを検索、解析しても、トグサを割り出すまでには訓練生の腕で今から１時間程度はかかる。それから動きを追って、場所を割り出し、もう一度包囲して――拘束までにはおそらく訓練時間が終わっている。
つまり、トグサが非常ベルを鳴らした時点、否訓練生が浮き足立ってトグサのいたあの部屋に足を踏み込んだ時点で、勝負は決したのだ。
（……やられたな）
言葉とは裏腹に、満足そうな声でボーマがつぶやく。きりきり走りまわされた挙句、目の前でまんまと逃げられた訓練生達は思い知っただろう。九課現役を生身で張るというのはどういうことか。完全義体の集団相手に鮮やかに逃げ切って見せたトグサに、サイトーもパズも笑っていた。
それぞれの戦い方、スタイルは違う。だが自らの身体能力やその場の状況に応じ、しなやかに作戦を変え、攻守のバランスを自在に操り、鮮やかに目的を達成していく。個が集団を手玉にとり、全員が気づいた時にはもうすでにするりと姿を消した後。
トグサは、紛れもなく公安九課の捜査員だった。
それから残りの時間、サイトー、パズ、ボーマは一応といった感じで訓練生達にＩＲの検索、解析をさせていた。
バトーは完全に暇を持て余し、大型スクリーン画面に映し出される解析画面を見るともなしに見ていた。
プシュ、と音がして入口を見ると、イシカワが入って来る。
「おう、どうなった。手が開いたんで様子見に来てやったぞ」
「あー、トグサ逃げ切りで今日は終了だ」
気の抜けたバトーの返事に、イシカワは面白そうにヒゲを撫で回した。
「なぁんだ、トグサの奴、何かやらかしたのか？」
「やらかしたも何も…。あの野郎、群集にパニックを誘発させて一気に動かし、それに乗じて脱出しやがった」
「おーお、やるなあいつも。ＩＲは？」
「訓練生が解析してるが、何せ人数が多い。あと一時間半で拘束に持ち込むのは無理だろう」
ふん、とイシカワはつぶやくと、目の前のスクリーンを眺めた。
「……確かに、すごい人数だなこりゃ」
「だろ？パズが踏み込む直前に気づいたんだがな。あそこで引けばトグサはビルの警備員に取り押さえられ、追跡側は思惑外れたトグサをまんまと拘束出来たんだが。いかんせんバカな訓練生達はトグサに踊らされた。連中、相変わらず訳もわかってねーくせに、引くべき場所で前に出たがる」
「ヒヨコの頃のお前みたいじゃねーか」
イシカワが目を細めてモニターを眺めながらからかうと、バトーは憮然と腕を組んだ。
「俺かよ。そんなことねーだろ、俺があいつら位の頃はもうちっとましだったぜ」
「そうか？」
むくれるバトーを尻目に、手元のキーボーﾄﾞを軽くいじってカメラデータを動かしていたイシカワは、とある映像をアップにしていく。
「見つけたぞ」
「うお、さすがに早いなご老体」
嫌味を混ぜつつバトーが身を乗り出す。
「………化けやがったな」
正面入口、殺到した人数の一番多い場所の中に、群集に紛れて背中を丸め、よたよた走り去る老人がいた。古風なハンチング帽で目を隠し、派手なチェックのニッカボッカにへんてこりんなチョッキを羽織り、ひょこひょこ動くその姿は、普通に見るとものすごく目立つ。
一刻も早く結果を割り出そうと解析に焦るなら、一番最初に検索条件からはずすような存在。その老人のような動きをする人間の若い目が、一瞬ＩＲシステムのカメラを捕らえ、きらり光る目でこちらを睨みつけた。
が次の瞬間、ブツン、と音を立て、映像は訓練生達がばたばた駆け回るショッピングモール内のものに切り替わった。
容赦なく切り替えたイシカワに、バトーが不満の声を出す。
「おい何すんだ！」
「鼻の下伸ばしてねーであとは自分で解析しろ。ったく、お前も近頃たるんだ顔が多いぞ。ぼけた仕事すんのは少佐だけで沢山だ。少し臍の緒締めろ」
それだけ言うと、イシカワは部屋を出て行ってしまった。
――色々お見通しってわけか――
バトーは頭を振ってため息をつくと、トグサの追尾に取り掛かった。
が。
「あれ？？」
トグサが見つからない。
エリアを広げ、さっきのような目立つ格好からいつもの姿まで、あらゆる条件で捜したが、トグサの姿は引っかかってこなかった。
訓練生達も同じと見え、電脳戦や解析能力の優れた者にボーマが作業させている以外、他の者たちは割合手持ち無沙汰な様子なのがモニターに映っている。
――どうしちまったんだ？？――
どこからどう姿を消したものか。どれだけエリアを広げても、それらしき姿はない。
バトーはボーマに暗号通信を入れてみたが、訓練生達はパニックのさなかにトンズラをこいた老人トグサさえ見つけられていなかったから、話にならない。
結局、トグサは訓練時間の残りすべてを逃げ切ったのだった。
こうして時間終了と共に、落ち込みモードの訓練生たちが戻ってきた。共に戻ってきたサイトーとパズ、ボーマは教室に入るなりバトーのところに集まってきた。
「見つけたか？」
「いや」
なんだかおかしかった。誰もトグサの姿を確認できていない。
本来なら、トグサも同じ時間にここに戻ってきているはず。なのに、全員が戻ってきても、トグサは帰ってこなかった。
そのまま訓練終了から１０分が経過しても、トグサはまだ戻ってこない。
事件に巻き込まれたのだとしたら？
バトーたちは何か面倒な事態が起こっている可能性を考えずにいられなかった。
トグサは、どこへ行った。
バトーは焦れた。
「おい、誰かトグサを見なかったか？」
その場にいた訓練生たちにも声をかける。しかし全員が顔を見合わせて首を振るばかりだ。
「まずいな」
サイトーがつぶやく。
現役連中がその時点で緊迫した荒仕事モードに切り替わった。
バトーが一気に指示を飛ばす。
「おい、アルファ−１はすぐにトグサ消失ポイントを洗いに行け、イシカワ呼び出すぞ、ボーマ、すぐダイブしろ！」
さっきまでとは打って変わって、バトーの声に真剣勝負が感じられた。
バトーが教壇からパズとサイトーに向かって一歩踏み出したその時。天井の通風孔カバーがガン、と音をたてた。
全員があっけにとられている間に、ガン、ガン！！という音は立て続けになり、カバーはゴン、と音を立ててバトーの傍らに落ちた。
天井から、カバーを蹴り付けていた足が突き出て。
「うわ、うわわわ！わああっ」
わめき声と一緒にトグサが降ってきた。
「おわあっ！！」
真下にいたバトーも焦りまくり、降ってきたトグサを思わず抱きとめる。
次の瞬間、バトーの腕の中に、横抱きでその首にしがみつき、へへ、と笑ってトグサがはまっていた。
「で？なんっでお前は本部の天井から降ってきた」
「いや、その、うまく逃げられたんで、ＩＲごまかすのに３回立て続けで着替えて、で見つけたマンホールから電気とか電話とかの地下共同構あるだろ？あれに潜りこんで、そのまんま終了１３分前までほっつき歩いてたんだ。
でも退屈になったから、マップ呼び出して本部のそばまで来てから出て、でしばらくうろうろしてたけどやっぱり退屈で、いたずらして共同構から本部に潜りこんで通風孔を辿って上に上がったんだ。
そうしたらさ、下の合同庁舎のエリアは設計図呼び出せたんだけど、本部の階に潜りこんだら電脳遮断されちゃって。道に迷って困ってたら、旦那の野太い声が聞こえたんで」
「………つまり暇だったというただそれだけの理由でここまで入り込んだのか」
「ああ、セキュリティ意外に弱いな。上の俺たちが使ってるエリアはさすがに入れなかったけど、この辺のセキュリティは甘かった。少し見直した方がいいんじゃないか？」
固まったままのバトーの腕の中で、トグサは説明した。
「おい、下ろせよ」
「ん、お、ああ」
すとんと立つと、トグサは服に着いた埃を払いながら、現役連中に茶目っ気たっぷりにお疲れ様、などと軽口を叩く。パズが目を細め、サイトーがからかい、ボーマがくしゃりとトグサの髪をかき回した。
トグサはなんとか埃だらけの自分の姿と折り合いをつけ、それから改めて訓練生たちを見渡した。
「全員失格。再訓練だな。総括して全部説明するから、その前にシャワー浴びてくる。１時間くれ」
なんというか、完敗としか言いようがなかった。
次の日のバトー対象者、トグサ指揮者の話は、また後日―――
わかっているのはただ一つ、賭けの儲けは、すべて飲みに消えたのだった。